2007年05月26日
☆最近の読書40 『サルトル 「人間」の思想の可能性』海老坂武/著 岩波新書
サルトルは、今でもおもしろい哲学者で作家だと思うのですが、人気はないみたい!! 1950年代から70年代までは人気があったのに、今では全くと言っていいほど人気がないようです。この本は公立図書館で借りたものですが、本の状態から私が初めて借りたようなのです。70年安保世代の連中がもう一度読んでみようとはしないのだろうか?
哲学者を扱った新書は、どれも結構難しいので敬遠する人はいると思うのですが、一頃の哲学ブームが今も続いていれば、読まれると思うのですが、ブームは今はなくなってしまたのであろうか?
この海老坂の『サルトル』は、よくできていて、最初が『嘔吐』の紹介で、海老坂の解釈も書かれているので「そういう解釈も出来るのか!」と感心してしまう。そもそも『嘔吐』という作品は、孤独を愛する人間にはたまらなく魅力的な作品なのだが、でも哲学者サルトルが書いたものだから生活感がある描写が出てくるわけもなく、主人公ロカンタンをはじめ独学者とか変態とか一癖もふた癖もある人物が登場して、わけのわからない話が展開される。一般的に言ってあまりおもしろい小説とはいえないだろう。ただ、孤独な人物が登場する小説なのだ。何か感動があるかといえば、ない。あるのは孤独な人間の描写があるだけと言っていいだろう!! そういう小説を専門家である著者が分かりやすく解説してくれる。それが当たっているかどうか、私は専門家でないのでわからないが、読んでみて楽しかったのは事実だ。
サルトルの代表作『存在と無』を読んだことがある人ならわかると思うが、初めっから難しい! それは、著者も告白している。専門家にも難しいものを何らかのヒント無しには読み進めていくことは出来ないであろう。そこで、例えばP25あたりに書かれていますが、対自存在を「意識」、即時存在を「事物とか世界」と読み替えて読んでいけば、何とかわかりやすくなるとアドバイスが書かれています。更に、「対他存在とは他人にとって現れる存在で、たとえば私が鈍い奴として他人の目に現れるなら、これが私の対他存在となる。対他存在とは他者のことではなく、他者のうちに住まう存在でもなく、私の存在の一部なのだ」という記述を読んで、感心してしまった部分です。専門家の解説も参考にしながら読んでみると、結構おもしろい読書ができるものです。
革命には暴力がつきものなのですが、この暴力をどのように考えるかは、永遠のテーマではないでしょうか。言うまでもなく、レーニン亡き後の権力闘争でスターリンとトロツキー派との熾烈な権力闘争があった。トロツキーは、メキシコで刺客にピッケルで刺されて虐殺されたのは有名な話で、それ以外にも党の幹部が大量に殺されていった。中国でも文化大革命の時代に奪権闘争の過程で多くの人民が殺されていった歴史がある。このような歴史のなかで暴力の問題をサルトルは知識人として探究のテーマとした。『弁証法的理性批判』という書物によって革命集団内部における暴力の問題が追及されているとのことです(私は立ち入って勉強したことはありません)。日本で言えば、1972年の連合赤軍事件が思い浮かぶ事件です。これをどのように考えるかは、知識人としての永遠のテーマではないか、と思います。「シナリオ『歯車』や戯曲『汚れた手』では、革命の中で暴力がどこまで正当化できるか、またそこから、政治を選ぶか倫理を選ぶか、こういったテーマが中心に立てられている。」P167 という具合に、知識人として当然解明しなければならない問題を措定して追及しているところが、サルトルが忘れられてはならない哲学者として今日的な意義あると思います。
「重要なのは、人間が見失われようとしている時代に、彼が人間とは何かを問い続けてきたことだ」P183 という言葉がとても印象的な言葉として残っています。
posted by 日下部理恵 : 2007年05月26日 22:44 | コメント (0) | トラックバック (0) | 読書・本 (68)
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